修行にも

今日は友人たち二人が来てくれた。「zubiさんが持っていたほうがいい」と、和辻哲郎全集を車で持ってきてくれた。相当重たいものを、車とはいえ多忙な中、相当遠方まで運んでくれた友人に感謝。そういう思いも込みで、ますます学びを深めてゆきたい。
キルケゴールボンヘッファー、そして和辻哲郎。信仰と倫理の問題。キルケゴールは孤立した自己に強調点がある。その信仰的決断が、倫理を凌駕する。極論すれば、テロリズムの可能性。
和辻哲郎における「間柄」の強調。それはレヴィナス的な他者の哲学を連想させる。しかし間柄を強調し過ぎれば、間柄に埋没する。わたしよりも愛する人、わたしよりも家族、わたしよりも郷里、わたしよりも国家。自己犠牲が「きもちよく」なってくる危険。
あらためて、ボンヘッファーの力強さを思う。彼の置かれた場は究極であり、そんなもの参考に出来るかというほどの生きざまですらある。しかしそこから紡ぎだされる倫理は教会における、キリストから照射された共同体である。しかしその共同体はキリストに照射されるゆえに、間柄に埋没もせず、「個」に孤立することもない。究極の場所に追い詰められた人間が、究極にアンバランスな場所に突き落とされた人間が、これほどにバランスのとれた倫理学を構想していたという不思議。
つねに他人によってのみ生かされ、成り立たされ、間柄においてのみ感謝して生きるのであるが、しかしそのような感謝は、自己を、それも孤独な自己をしっかりと生きていなければできないことである。イエス・キリストの御前に立たされるということは、教会という共同体に感謝し安らぎつつ、しかも孤独に神に祈ることなのだ。孤独を忘れて教会に埋没することでもないだろうし、教会を忘れて孤独へと突き落とされることでもない、信仰のダイナミズム。それは「要はバランスなんだよね」で済むようなイージーなことではないはずだ。プロテスタントは修行とは言わないが、イージーではないこの道のりは修行に匹敵するはずだ。