個への収斂

和辻哲郎倫理学(四)』(岩波文庫)を読了。郵便配達の厳しい日々、知に飢えては仕事開始前に毎朝(一)や(二)を読んでいたことを思うにつけ、感慨深いものがある。
(四)や、巻末の丁寧な解説を読むにつけ、和辻哲学の持つ限界と、その限界ゆえの親しみ、豊かさの開示が感じられる。ボンヘッファーの『キリスト教倫理』は峻厳で、キリスト者であるわたしにとって眩しすぎる光のようである。どこまでも追及したいが、決して届かない目標点である。それに対して和辻の『倫理学』は、僭越な言い方が許されるならば、いかにも日本人的、わたしのような人間が想像できそうな限界に止まっている。だからその欠陥にも関わらず、親しみを禁じ得ない。
ハイデガー的な存在論の強い影響下で、ボンへファーはキリストを中心に、キリストに出会い、罪を強く意識し、キリストの赦しと派遣による共同体を考えていただろう。それはまず、キリストに出会う「わたし」だ。そして、「キリスト」、キリスト教ですらない、とことん排他的とも言える特殊性だ。
そしてたぶん、極端に特殊で排他的で個人的なところから出発するからこそ、彼の実人生の出来事とも相俟って、強烈な光が普遍的に輝きだす。それに対して和辻は特殊や個を大切な契機とはしつつも、やはり最初から普遍への希薄化が頭をもたげている。
彼が国家を論じるあたり、その論じ方にいかにも日本人的な親しみを感じつつ、しかも現実的にはとても遠い、遠さを感じる。あまりに飛躍し過ぎているし、国家が最高段階であることへの素朴な前提がある。(四)まで読んで感じたのは、(一)の躍動感は(四)にはほとんど無いということだ。
やはり倫理というのは国家や全体性を語る以前に、より周到に綿密に、わたしの目の前にいる人との関係、そしてわたしの目の前にいる人が感じ考えているもう一人の人との関係について語るべきなのだろう。しかも間柄であると同時に、わたしにも相手にも恣意的な変更が不可能な超越性を持つものとして。