ロマンを超えて

昨日、60代から80代の人たち数人を案内しつつ礼拝堂を歩いていた。彼女たちは光さすステンドグラスの前で、讃美歌54年版の496番を、亡き友を懐かしみつつ賛美していた。女学生だった頃に還りつつ。
さらに移動しながら、彼女たちの最高齢の人が言った。やはり聖書は文語訳がいい。讃美歌は54年版(ないしそれ以前)がいちばんいいと。
それに対して60代の女性が反論。文語訳では、若い人には意味が分からないと。
噛み合わない議論を聴きながら思った。今度の聖書は翻訳がよくない、新しい讃美歌は難しくて馴染まないという評価の背景にあるものを、この「496番をうっとりと歌う」という心性が象徴的に表している。そう、懐かしさだ。また一方で、反論した女性の「若い人には意味が分からない」というような論法が、決して相手には届かないということも、この二人の噛み合わなさに象徴される。若い人を楯にとって新しい聖書翻訳なり新しい讃美歌編集なりを正当化しようとしても、たぶん平行線のままとなる。たとえば初めて教会に来た人がいるとする。仮にその人が若い人だとしても、聖書が古い訳か新しい訳か、讃美歌が古い編集か新しいものかなど分からない。他の教会にあるかもしれない他の聖書とその場で比較のしようがない以上、その人はそこにある聖書なり讃美歌なりに納得して馴染むか、教会を去るかするだけだ。去るにしても「この翻訳は分かり辛い」という理由ではないだろう。他の訳などそこになく、比較したこともない以上は。それゆえ、「若い人には古い聖書や讃美歌は馴染みにくい」という論法自体に、弁証能力というか反論の力は弱い。
もしもそれでも教会が新しい翻訳の聖書や新しい編集の讃美歌集を時代ごとに必要とする理由があるのだとすれば、それは若い人への分かりやすさ以上のものであるはずだ。教会がつねに新しい言葉へと開かれたものであること。それは年齢というよりはむしろ、今はまだ隠された可能性の開け行く地平の事柄であること。ルターがドイツ語で聖書を訳したとき、当時の人々はたぶん「なるほど意味が分かった、読めた」では終わらない、それどころではない驚きを感じたことだろう。そうした発見の喜び。老若男女を超えて。