外か内かでは割り切れない

恩師から応答を頂いた。彼によると、キリスト者がなかばむきになって『ふしぎなキリスト教』の間違い探しをするのは、間違いを指摘したいというよりはむしろ、言いようのない不快感によるのではないかという。
自分の父親について、知りもしない相手から「お前の父親はこれこれだ」と分析される。分析された側としては「お前におれの父ちゃんの何が分かる」と言い返したいが、父─子の関係(というより人間の愛の関係はどんなかたちであれそうだが)の核心を、うまく言葉にして、論理化して説明できない。でも、「違うんだ」とは言いたい。そのもどかしさが、とりあえず間違い探しというかたちになるのでは、と。
深いなと思う。言われてみれば、わたしが例に挙げた『納棺夫日記』の青木新門の体験にしたって、わたし自身がもしも突然に腐乱死体と遭遇したなら、動転して恐怖さえするだろう。なぜなら、青木と腐乱死体との深い関係性に、わたしは立ち入っていないから。にもかかわらず、もしもわたしが知ったように「スピリチュアリティの世界では、だいたいこんな感じですね」的にクールに語ったら、青木は不快感をあらわにするに違いない。
だが、ここに葛藤がある。その理屈を突き詰めれば、宗教ないし信仰的体験や信仰生活について、信仰者(当事者)以外は口を挟めないことになる。今回のことで言うなら、クリスチャン以外はキリスト教について語ってはいけないことになる。あるいは、宗教学というものの前提が揺るがせられる。
信仰者の不快感を煽ってしまう、そのぎりぎりの抵触ラインに近づきつつ、しかし敢えて「外部から」語る可能性。そういう可能性について熟考させられる。