『ふしぎなキリスト教』。批判の圧倒的なものは、やはり、教会史の誤りや聖書学的な誤り。たしかに、その分野の専門家から見たら無視できない量の間違いなんだろうな。ただ、批判するならするで、大澤氏と橋爪氏の「ざっくりとした解釈全体」に対する批判もあってもいいのではないかとも思う。
「間違っている」「屑だ」と一刀両断するのではなしに、信仰「抜き」の解釈と、信仰の側からの解釈との比較の素材にするとか。そうでないと、高度な研究を収めた神学者以外は、随筆レベルでもキリスト教について一切語ってはならないということになる。
たぶん、キリスト者が「この間違いは譲れん!」と思う部感覚(だからそこで立ち止まる)と、信徒以外の人が「そんなの今はどっちでもいいから」と思う感覚(まずは好奇に進む)との、圧倒的な、埋め難い溝なんだろう。
批判とか批評とかの態度決定の問題なのかもしれない。自分がたんに甘っちょろいだけかもしれないが。わたしはテクストに対する時は、相手になるべく好意的に読もうと考えるし、相手の見解を否定するにせよ、できるだけ「でもこの部分は評価できる」とした上でしたい。とくにインターネット上では。
?現代を考える上で重要なのは、このような態度のレベルの信仰だと思うのです。もうキリスト教なんて形骸化しているとか、もう信じている人はごく一部にすぎないとか、そういうふうに思う人もいるかもしれません。しかし、意識以前の態度の部分では、圧倒的に宗教的に規定されているということがあるのです。そうするともともとのユダヤ教キリスト教、あるいはその他の宗教的伝統がどういう態度をつくったかということを知っておかないと、世俗化された現代社会に関してさえも、いろんな社会現象や文化について全然理解できないことになるんですね。”(『ふしぎなキリスト教』127頁)
“神も、契約に縛られているんです。いったん契約した以上は、救われたければ契約を守ってくださいねと、人間に言わざるをえない。そういうルールでものごとは進んでいる。律法のゲームが進行しているのに、神といえども、契約を無視して人間を救うことはできないのです。”(同書、206頁。)
“無意識の、態度レベルでの信仰にも目を光らせなければ、キリスト教の「影響」の実態は見えてきません。私はまったく宗教に関心がないよ、教会には行かないよ、と言っていても、無意識のうちにキリスト教的なエートスや行動様式やものの考え方を採用している人はたくさんいますからね。”(同書、278頁。)
“だから、いまから見れば明らかにキリスト教的な世界観を否定するのに役立ちそうな真理のシステムが、まさにキリスト教から出てきたということになるんですね。こういうことは、たとえばイスラム教や仏教では起こらないと思うのです。”(同書、311頁。)
引用しだせばきりがないが、『ふしぎなキリスト教』のなかで、議論のおかずにできそうな、いきのいい言説はいっぱいある。こういった言説の賛否をこそ、活発に論じてほしいのだ。年代や聖書学の間違っているところだけ列挙して「所詮素人のくせに」式に見下ろしていても、なんの生産性もない。