奉仕に関する覚え書き

ルカ10:38以下*1。マルタとマリアへの理解が、教会の奉仕に対する態度への課題となっていないか。座って御言葉を聴くマリアのほうが、忙しく立ち働くマルタ「よりも信仰的に優れている」と。
つまり、理性を働かせ、静かに観想し、主の御言葉に傾聴し、信仰を深めることが第一に大切であると。イエスの言葉をろくに理解もせず、目の前の片づけに夢中になることなど愚かであると。
どこかでこのような受容の歪みが生じていないか。そして男性が聖書や教会の難しい理屈を扱う上位にある者、女性が「下々の雑用」を行う下位にある者とされてはいないか。あるいは役員会やお花、オルガン奏楽などに対して、お掃除は劣った奉仕であるとされていないか。
聖書を雄弁に語るには特権的な知識が要る。オルガンは子どもの頃からレッスンを受けている者だけが弾ける。華道を修めている者だけが美しくお花をコーディネイトできる。専有する知の権威。誰も掃除をやりたがらない理由は、掃除「など」誰でもできるからか。掃除に特権的なるものすなわち権威がないからか。
もう一度ルカ10:38以下へ。マルタはイエスから一方的に叱責されたのか。イエスはマリアとマルタに「優劣」をつけたのか。違うだろう。イエスはマルタのマリアへの複雑な思いを、残念に思っただけだ。そこには前提として、マルタのもてなしへの深い感謝がある。
エスとマルタのあいだに深い信頼関係があったからこそ、その和やかさの文脈のなかで、むしろユーモアを交えて、イエスはマルタにそのように語ったはずだ。イエスがマルタを「たしなめた」とし、御言葉に傾聴することと奉仕することとのあいだに優劣をつけるのは早急に過ぎる。
マイスター・エックハルトの説教を思い起こす。マルタのほうが信仰において進んだ段階にいたのだというのが彼の説教の大意。マリアは初心者だったのだと。イエスはマルタの信仰の深さ(への信頼)とマリアの初心者であることとの関係性のなかでこそ、あのようなことが言えたのだと。

*1:“一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」”