思い黒々と

対話は重要だし、人を赦すことはキリスト者の基本だと理解している。だが、この2年ほどで学んだ。対話には限界もあるし、わたしは罪人に過ぎない。わたしの牧師復帰を妨害する人間は、わたしの敵だし、わたしを無任所教師だとして見下す人間を、わたしは同じ人間とは決して認めない。
1年前までは、思っていた。あらゆる人との対話が可能であると。なんと夢想家!この業界で生き残るには、生き馬の目を抜くような、激しい駆け引きが必要なのだ。わたしは蹴落とされたのだし、敗者なのだということを忘れるな。そしてもう一度勝つためには、蹴落とした奴らを決して赦してはならない。
もう一度、立ちあがるために。必ず立ちあがって、わたしを蹴落とした連中の泣きわめいて歯ぎしりする姿を見るために。諦めないぞ!
ときどき、ちょっとしたことで、あのときの激しい屈辱がよみがえってくる。机の上で、平然と、指一本動かさずに、わたしの任地を、わたしの将来を葬り去った奴が、今も生きている。
文字にするとすっきりするな。やっぱり、善人にはなれないもんだw
ある方がレスをつけてくれたおかげで、冷静に戻る。よくガンダムとかで「憎しみの連鎖を断ち切る」的なことがテーマになり、そういうものを観ているときは「そうだ、憎しみではだめなんだ」とか思っている。ところが自分が当事者になると、いつまでも憎んでいる。しかも時々、憎しみに飲み込まれる。
トラウマだの心の傷だのとカテゴライズしてみたところで、解決しない闇。十字架が、なんで十字架というものとして屹立しなければならなかったのかは、こういうところにその消息があるはずだ。十字架がまだまだ自分の外部にある。十字架が受肉されていない。イエスの赦しが、キョーギガクに留っている。
しかし、自分の小さな憎しみひとつ克服できない罪深い人間が、人さまに「罪の赦し」など語ることができるはずがないのだ。そういう意味では、自分は任地をあのとき潰されてよかったのだ。あのとき、自分の罪が露わになったのだ。神はわたしに、正しい裁きを行われたのだ。
罪を犯したから裁かれることもあるが、逆に、なにもしない先に裁かれることで、それに反抗する自分の罪がはっきりすることもある。それがキリスト教というものだ。
それにしてもそういうふうに語る自分は、まさに、うまくいっている(ように勝手に自分が偶像化している)人を妬み、「あの人たちの知らない真理を自分は挫折によって知った」式のいじけた信仰を持とうとしている。ニーチェが『道徳の系譜』で語ったルサンチマン(妬みや逆恨み)そのまんまじゃないの。
あれ?『善悪の彼岸』だっけ?いずれにせよ、ニーチェとどう向き合うかは、わたしの一生の課題だろう。また、「向き合う/目を逸らす」という二項対立を超えた次元に立つ(立つ/消える、さえ超えた)宗教として、仏教はいつまでもわたしの傍から囁き続けるだろう。
ルサンチマンを信仰の根幹に据えてしまうと、「いわゆる」社会的に成功している人、「いわゆる」家庭円満な人にはキリスト教は必要ないという極論に辿り着いてしまう。そんなことでいいのか。よくない。信仰にルサンチマンが深く関係するのは事実でも、ルサンチマンが信仰そのものなのでは決してない。
リア充」とは言いえて妙な言葉だ。リア充/2次元の二項対立が真実であるように見えるのは、キリスト教信仰のこういう側面そっくりだ。だがこれまた、それなら元気で活発な人は漫画やアニメやゲームと無縁なのかという話になってしまうではないか。そんなはずはない。
それでも、今の会堂守の仕事は、やっぱり面白い。日曜日の夕方から昨日までで、ほぼ敷地内ぜんぶ掃除を終えた。今日は一階のホールと記念館をやろう。礼拝堂に愛着がわいてくる。こういう喜びを、奉仕する信徒と分かち合いたい。