担う、関わる─読書メモ

 “グリューネヴァルトコルマールの聖堂に描いた「イーゼンハイムの祭壇画」では十字架上のキリストの体に無数の腫瘍があって膿が出ている。これは、この地方の風土病(おそらく公害病)の病人を収容した施療院の礼拝堂に描かれたもので、同じ病気に苦しむ病人と看護する尼僧たちにとっての癒しの図像だった。暴君ヘロデ王の命令で首を切られた洗礼者聖ヨハネの、首の切り口から血が吹き出る残酷な斬首の場面も数多く描かれたが、エドガートンは、この場面は、斬首される処刑者の最後の瞬間になぐさめを与えるためのものだったと書いている。ローマのサン・ジョヴァンニ・デコッラート聖堂には同名の信徒会が描かせた有名なペリン・デル・ヴァーガの祭壇画があるが、それは処刑台へ向かう死刑囚にとっての視覚的な麻酔剤だった。”(若桑みどり、『イメージの歴史』、筑摩書房、2012、71頁。)
 “通常、ポストモダンの時代環境において言われることは、私たちの取るべき態度は、謙遜よりむしろ寛容の態度だということである。両者の間には重要な違いがある。寛容は、その距離を保つことができる。つまり、「あなたはあなたの見解を持ち、私は私の見解を持っている。両方とも等しく価値がある」というような礼節ある議論を促進することで、互いに競い合う考え方を相対化することができる。「すべての宗教はいずれにしても同じことを言っている」というような誤った一般化を許すことで、違いを受け流すことができる。しかし、このようにして得られた共通基盤は、わざとらしい支持と愛想に依存している。それは、本当の意見交換の持つ相互のやり取りに耐えることができない。これに対して、謙遜は関わり合いを求める。一つの見解は他の見解との関係において支持される。対話者は、自分が進んで主張しようとする立場に自らを懸けている。対話は行きつ戻りつする。そこに意見交換がある。この交換によって、互いの見解は挑戦され、研ぎ澄まされる。違いを認め、関わり合い、見解がただされることを快く認める態度を通して、お互いが主張する意味をしっかりつかむようになる。謙遜の態度は、競い合っている相手のイデオロギーを深く探求し、他者の信念のみならず自分の信念の持つ欠点や短所を喜んで認める用意を要求する。”(クリスティーン・マックスパッデン、「ポスト・キリスト教時代の教会で聖書を忠実に説教する」、エレン・デイヴィス他著、芳賀力訳、『聖書を読む技法』、新教出版社、2007、234頁。)