鮮やかなるもの

法華経』を少し読み、録画しておいた『平清盛』を観る。やけにハンサムな西行や、高野山の血曼荼羅の、ほぼファンタジーを愉しむ。
聖書を読むときは、自分は信仰の渦中にいるので、距離を置いて読むというのはきわめて難しい。しかし仏典を読むとき、あらためて思う。聖書も含めて、古代の人々の想像力(鮮やかなものを文字化する力)の、なんと優れていることかと。
平清盛』で、曼荼羅の画僧が清盛の気迫に合掌している場面があった。歴史的に事実か否かは置くとして、とにかくそういった人間の気迫、そこから生まれる鮮やかな畏れのイメージが、様々な寺院や仏像、仏画に結実していったのだろう。それはキリスト教諸書、美術についても同じだろう。
ソクラテスプラトンの言うところのイデアの影、不完全なイメージとしての現実。だからこそイデアを熱望する人間は、その「距離」を埋めるべく、あれほどに見事なものを作り上げる。イデアそのものが現在するなら、人間が完全であったなら、そんな必要もなかっただろう。祈りにおける「遠さ」、しかも遠くにあるものを紙一重に感じる感覚。