言い逃れ

http://t.co/TpP4MVU 四半世紀前くらいの、中学生丸刈りについての、非常に貴重な闘争の記録。
わたし自身は中学生のとき、自分は厳しい校則の「犠牲者」なのだと見なすことで、教師や学校の体質を自分なりに冷静に批判することから逃げていた。
しかしこのブログを読む限り、同じように学級委員長や生徒会活動をしていた自分が、無意味に強制される校則に内心疑問を感じていながら、いかに教師に従順に阿っていたかが分かる。
それは今、橋本知事や石原知事に理屈上はあれこれ疑問を感じながらも、生理的には案外あっさりと受け入れてしまっている自分、そういう自分自身に繋がっているのだ。
自分がなぜボンヘッファーに惹かれるのか。それは、自分が同じ時代にいたら、間違いなくナチスになんの疑問も抱かないか、内心疑問を感じても無難にやり過ごす牧師になっただろうという、負い目があるからなのだ。
「このブログの著者が特別すごいだけだ。自分が中学生のときにはこんな選択肢があると気づきさえしなかったのだ」と、言い訳しようと思えばできる。だが、戦争に加担する牧師も、同じように弁解するだろう。あるいは同胞の受難を、罰せられるのを怖がって見捨てる牧師も。
ボンヘッファーが特別、自分は凡庸とみなすことが、逃げの一番の近道である。