女嫌いの教会

“重要なことは、アダムとエバの罪によって人間が永遠に堕落する、だから、強固な社会的・政治的統制が永遠に必要になる、という考えはキリスト教本来のものではなかったという点である。イエスは協調を教えたのであって、ドナトゥス派やペラギウス派(原罪説を否定)はカトリック教会とローマ帝国の世俗的なつながりを非難し、非暴力、愛情、同情を説いた。アウグスティヌスはローマを認め、軍事力を不可欠とし、女性と性の穢れを致命的なものとして断罪したのである。アイスラーによれば、このような考えはキリスト教に固有のものではない。古代ペルシャの哲学者ゾロアスターによれば、宇宙には明としての善と暗としての悪があり、暗い俗界に属する自然と物質は本来的に堕落している。男の魂は物質によって汚れている。女はあらゆる悪魔の母である。宇宙の悪と暗はひとりの女から発する。この女のペルシャ語の名前が、英訳されてメンストルエーション(月経)となったのである。”若桑みどり、『イメージの歴史』、筑摩書房、2012、204頁。
若桑によれば、男性至上主義の結実として、エバの対極たるマリアがあるという。無原罪、処女、被昇天。月経もなく、性交もなく、死もない。肉の塊、肉欲たる女の対極。そしてマリアは子育てに仕える。
マリア崇拝は、よく言われるような女神信仰の名残ではないと若桑は考える。彼女によれば、女神信仰、地母神信仰は、性を肯定する。しかし徹底的に性を穢れと見做し、女性を罪と見做した上に成立するマリアの聖性への信仰は女神信仰とむしろ正反対であると。
ペラギウスやドナトゥスはとにかく「間違っている」と神学的に思いこむ。アウグスティヌスこそが正しいと。しかしヨースタイン・ゴルデル『フローリアの告白』の、ミソジニーで愛人に暴力を振るう、どこか歪んだアウグスティヌスの姿は、史実かどうかではなく、教会の硬直した歴史を象徴的に正しく描いている。
たしか若桑みどりの訃報をネットで知ったとき、葬儀の会場はどこかのカトリック教会だったと思う。彼女がクリスチャンだったのかどうかは分からない。しかし、たぶん彼女の遺志で、葬儀は教会で行われたのだろう。このような重層的な思考の上に、彼女の目に教会はどのように映ったのか。