父の心子知らず

法華経』の「信解品」を読む。ルカ福音書の放蕩息子の話を思い出した。父親のもとから、息子が去る。つねに息子を案じ、探す父。息子は50年の放浪の果てに、貧窮状態で父に発見されるが、大富豪となった父を自分の親だとは気付かない。保護されたのに逮捕されたと思い気絶する。
そこで父は、息子に歩調を合わせる。父だと名乗らず、威圧感のない貧相な使いを遣らせて、彼をトイレの汲み取りの仕事につかせ、そこからだんだんとよい仕事を与え、財産の管理を任せるところまで20年ほどかけて慣らせる。息子は自分が彼の息子であるとも、彼に配慮されているとも知らず、謙虚に黙々と働く。
やがて死期を悟った父は、息子と周囲の者たちに真実を告げ、息子にすべてを相続させる。息子は驚き感激する。自分は貧しいのが当たり前だと思っていた、このような幸福を望みさえしていなかったと。父がこれほどに自分を案じてくれていたことを今知ったと。
これは「涅槃に至った」と、小乗の悟りに安んじていた長老たちが、今まさに大乗の智慧、万人の救いがあることを知った際に、自分たちを恩知らずな息子に譬えて語ったようだ。恩知らずな息子と愛し案じ続ける父親と。その構図は、イエスのたとえ話にも通じる。
どちらも父と息子であり、母と娘や母と息子や父と娘ではないところは、時代の制約ということかな。