すれちがった、と意識するだけでも

赤木善光『イエスと洗礼・聖餐の起源』の、「付論 日本基督教団の諸問題」を読んでいるところ。以前彼の『宗教改革者の聖餐論』を読んだときに、前提が違う事を意識せずに論争しても議論がかみあうはずがないと、教団の現状について思ったことがあったが、赤木自身がまさにそのように考えている。
彼によれば、たとえば日本基督教団聖公会は正式な協定を結んでいない以上、互いの職制を公式に認めあったわけではないのだから、互いの職制において執行される洗礼や聖餐を認めあうのはおかしい、ということになる。「同じイエスを信じているんだからいいじゃない」とおおざっぱに現場レベルで相互陪餐を認め合うことは、一見おおらかに見えても、最終的には互いの職制の歴史や伝統を、ひいてはサクラメントの聖性を軽んじることになると。これは簡単には反駁できないと思った。「どちらの教会でも洗礼を受けられた方は聖餐に与ることができます」と聖餐式前に語る牧師は、わたし自身も含めて多い。
しかしまた一方で、彼がリマ文書等のエキュメニズムを表面的と批判することについては、厳しすぎるのではとも思う。たしかに彼の言うとおり、まずはお互いの違いを徹底的に学び合い議論し、次いで完全な一致を見出し、その後初めて現実に相互の交わりをするのが理想ではあるとは思う。しかしそれが「この地上で」実現するだろうか。表面的の誹りをあえて受け止めつつ、なおその表面ぎりぎりのところであっても、教派間が何らかの接点をさぐる試みも重要ではないかとも思う。
ただ、赤木がきれいごとを言わず、教会の暗部、教団の歴史の闇を見つめなければならないと主張する、その部分は敬意を感じる。対話を否定し教派間の違いや分断を強調するかに見える彼の議論は、実は教会一致を強く願うゆえの、「じゃあそれを妨げる溝は何なんだ?」についての言説なのだ。
赤木がウィトゲンシュタインに興味があるかどうかは分からないが、彼と言語ゲームの問題について対話してみたい。日本基督教団内には、共通の言語ゲームが成立し得ない構造があるという、一見絶望的な、しかし無視できない現実があることを、赤木は語る。だが「共通の言語ゲームが成立しない」という現実が分かったら、それだけでももうけものではないか。それさえ意識せずに論争を続けても、半永久的に無益な争いが続くだけなのだから。
それにしても、カール・バルトが最晩年に息子マルクス・バルトの強い影響を受けて、幼児洗礼否定論から洗礼そのもののサクラメント性否定論へと傾いていったという事実には驚いた。多くの牧師が崇拝すらする、あのバルトが、洗礼を「責任的応答」に絞ったとは!ブルンナーどころかブルトマンにまで接近しているではないか。これは恥ずかしながらまったく不勉強な、今知った事実だった。
九州にあるバプテスト系の大学の先生たちが、バルト研究を高いレベルでしておられるのは、もしかすると、バプテストでは洗礼をどちらかというとバルトの方向で教義化していることと関係あるのかもしれない。たしかバプテストでも「サクラメント」とは言わなかったように記憶している。