同じ穴

“実際われわれは、「君はそれを知っているような気がしているだけだ、と僕は信じる」と言う人間に対して、どうやって答えるだろうか。”四八九 
知っていることと、信じることとが、議論の無限の退歩として描かれる。気が遠くなる。これを使えば、要するにすべてが「あなたがそう思っているだけ」。
“私が本当に言いたいのは、言語ゲームというものは、ひとが何かを信頼する場合にのみ可能であるということだ。(私は「何かを信頼することができる」とは言わなかった。)”五〇九 
信頼することができるなら、信頼しないこともできる。それは傍観者である。「信頼する」を選んだら、もう「信頼しない」は跡形もないし、そもそもそのような選択の可能性すらない。傍観者なのではなく、渦中にある者、そこに深くコミットした者である。神学の議論がすれ違うのは、まさにわたしがコミットしている穴と、あなたがコミットしている穴が、別の穴だからなのだ。その場合どちらの穴が「正しいか」など、検証のしようがない。どちらの穴にもコミットしていない、「中立の判定者」たる人間がいないから。あるいは逆に、どちらの穴にもコミットしていない人間が何かを判定しても、それはどちらの穴の人間にとっても「ふうん、おもしろいね」以上のものではない。『ふしぎなキリスト教』。