これは、わたしの手だ。そうに決まってる。

“それならなぜ私にとって、これが私の手であることがそんなにも確かなのであろうか。言語ゲームの全体がこの種の確実性を基礎としているからではないか。あるいは、言語ゲームのなかでこの「確実性」がすでに前提されているのではないか。すなわち、ある範囲の対象を確実に認識しない者は、その言語ゲームを学んでいないか、間違った仕方で行っている‘ことになる’、というように。”ウィトゲンシュタイン「確実性の問題」四四六
「これがわたしの手であることをわたしは知っている」というような、そうに決まっている、もうそれについては議論しようがない、というような理解が、教義学における洗礼と聖餐の問題については「二種類/何種類か」ある。しかも、それぞれについてそれを「知っている」人たちは、それについて論じることは「それはほんとうにお前の手か?」と詮索されるのと同じくらいの苛立ちを感じる。そうだよ、わたしの手に決まっているだろう、と。それが相手に伝わらない、納得してもらえない場合、苛立つ当事者は、相手は言語ゲームを学んでいないか、間違った仕方で行っているとみなす。
だが、ウィトゲンシュタインはここで“間違った仕方で行っている”と言わずに、“間違った仕方で行っている‘ことになる’”(黒田の訳では‘’は傍点)と言っている、このことが重要だ。間違った仕方で行っている‘ことになる’と確信するのか、間違った仕方で行っていると確信するのかでは天地ほど結論が異なるだろう。‘ことになる’という一言は、相手が自分と同じ人間、対話の相手であることを認める最後の防波堤である。
午前中に見知らぬ電話番号で携帯が鳴る。もしやと思って出てみると、やはりA先生!著作を読んだ後に感想を手紙で出した際、ちょっと期待をこめて、封筒に携帯電話番号を記しておいたのだった。「会わない?」とお誘い下さったので、6月にT神学大で面会させていただくことに。いろいろ質問しよう!