コミットメントは選べない

『NHKスペシャル 未解決事件 File.02 オウム真理教 オウムVS警察 』を見る。警察を批判することはいくらでも可能だろう。しかし警察にあれ以上の捜査を求めるとするなら、今自分が通っている教会に、毎週警察が監視に来ることを許し認める覚悟も必要だろう。
信教の自由保持と秘匿暴力の発見とのぎりぎりのせめぎあいが、警察とオウム真理教との関係だった・・・・番組を見て、あらためて考えさせられた。上祐史浩は淡々と語っていたが、彼の中で罪の総括への問題はどうなっているのだろう。オウムないしアレフの教義では、罪概念が存在しないのだろうか。
ふだんわたしは、宗教は倫理とは重なりつつも異なるものと考える。ときに宗教は倫理を逸脱することで、倫理的生活に限界を感じる者へ可能性を開くとさえイメージしたりする。創世記22章。そもそもイエスの十字架。しかし「倫理を宗教が超える」と言語化した途端に、それが暴力となる!
他人の暴力ではない。宗教に深く携わり、宗教を職業としている、わたし自身の暴力の問題である。
ポアする側に留まるか、抜け出してポアされる側に立つか、選べという二元論。そこで「留まるしかなかった」と上佑は語っていたが、二元論の外に出ることはできなかったのか。しかしそれもまた、じゃあお前は今からキリスト「教」をまったく傍観者の立場で観察できるのか、という問いとなって跳ね返る。
このところ対話の問題とからんでコミットメントについて考えていたが、生活に深く根差した言語ゲームのコミットメント、確信にかかわるコミットメントは、選択できるものではない。それはつねに渦中でしかなく、あれにコミットするかこれにするかと見渡すことはできないように思われる。
反省や予想と隔絶したコミットメント。それを打ち破るパラダイム転換は、どうやったら起こるのか・・・・