ただの人間として

鰯定食食いに入ったら、横の二人がレコーディングの話してる。西海岸がどうのこうの。場違いでかっこいい。
テゼー礼拝に出た。牧師が、ヨハネ4:14*1から、ごく短く説教した。わたしたちは、自分の泉が渇いていると知っている。それでも誰かに親切にしようと、必死で水を汲みだせば、それは底に溜まった泥水を相手に与えているだろうと。だから、主の溢れる水を飲み、自らも清らかな水を溢れださせようと。
要約してしまうと文字通り「説教くさい」が、牧師も会衆と同じ方向を向いて、独り言のように呟くなかで、深く心に響いた。わたしは連れ合いに泥水を、ありていに言うならヘドロを飲ませていたではないか。だから連れ合いは疲れ、倒れるのではないか。当たり前ではないか。深く悔いた。
こんどこそ改めさせてください。そう主に罪を告白し、祈った。そしてテゼーの短い讃美歌を、他の人たちと一緒に繰り返し繰り返し歌った。
礼拝のなかで、祈りたい人は口に出して祈る時間がある。先月出席した時は、黙って人々の祈りを聴いていた。今日は、祈った。赤裸々に祈った。この一言を吐き出さずには帰れない、そう思い詰めて、一言だけ祈った。すると、解放されるような喜びが静かに満ちた。

*1:“しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。”