仮だからこそ本気

バルバラの72年のアルバムB面一曲目のイントロが、北島三郎かと思うような前奏だった。以前にヤンコ・ニロヴィックのインストゥルメンタルでも感じた印象。音楽理論に無知なのでよく分からないが、シャンソンと演歌には影響関係があるのかな。
昨日、テゼーに出て思った。郵便局も、今の仕事も、腰掛けではない。牧師に復帰するための手段ではない。どのプロセスも、ぜんぶ本職である。
アブラハムらの寄留生活。寄留者にとって、たしかに約束の地が本拠であり、そこまでの住処は仮の庵であろう。だが、仮の庵で、彼らは本気で生活したはずだ。そこが本拠であるかのごとくに。また逆に、約束の地でさえ、自分の土地ではなく神に与えられた、それこそ僥倖、プレゼントだと感じたはずだ。
だからわたしも、寄留者としての仮の生活を腰掛け程度に感じるのではなく、寄留者だからこそ、イエス・キリストに与えられた生活を、それが本来の自分だと信じて生きたい。自分探しは必要ない。キリストに与えられたもので生かされる、寄留者だからこそ定住者である本来の自分はここにいる。
と、手を止めて納得するのもほどほどに、真面目に掃除しなきゃ^^;