かみ合わせたい

双方の主張かみ合わず | 松ちゃんの教室 ブログ
ちょうどウィトゲンシュタインの『確実性の問題』(黒田亘訳)を読み終えた直後に、タイムラインでこのブログ記事を知った。「かみあわない」という言葉の重さ。ウィトゲンシュタインが「これはわたしの手だということをわたしは知っている」という命題から始めて、知っているって何だ、その場合「間違えた。知らないんだった」なんてことがありうるのか、と問いを進め、人が何かをどれだけ論理的に、ないし懐疑的に(中立的に)語るにせよ、人は「これだけは疑えない。疑う?お前正気か?」というような、そもそも疑うための前提とでもいうような確信があることを浮き彫りにしていった。この疑い得ぬ前提が、たとえば「わたしには身体がある」とかなら、まだよいほうだ。あなたにも身体があり、わたしにも身体がある。当たり前じゃないか。間違っているかもしれない?身体を持っていると思い込んでいるだけ?お前正気か?と(もちろん、いろいろな心の重荷を負っている人もいる。あくまで、ある程度健常に生活している人同士の会話)。だが、宗教の場合、この、身体なみに当然視していることが、実は互いに違っていた、というようなことが起こるのだ。しかもそれが、「ああそうか、すまんすまん」で終わらない。歴史上、戦争にさえなったのだ。人がそれで死ぬのだ。殺されるのだ。
『確実性の問題』六四九に、このような表現がある。“かつて私が或る人に──英語で──あの枝振りは楡の木に特有のものだ、と言ったら相手はそれを否定した。その後で梣*1の木の傍を通り過ぎたとき、私は、「御覧なさい、これもさっき言った枝振りだ」と言った。すると彼は、「しかしこれは梣だ」と答えた。──そこで私は言った。「これまで私がニレと言ったとき、実はいつもトネリコのことを考えていたのだ。」”
「聖餐」という語がある。キリスト教プロテスタントにおいて。ツヴィングリはそれを教会員一致団結の象徴という(意味だと思った)。だがルターはパンはイエスの身体そのもの、ワインはイエスの血そのものだ(と思った)。その両者ないし両派が、しかし「聖餐」という語彙のみで語り合って、意味が通じるだろうか。「いや、だから『聖餐』の話をしているんだよ」「お前こそ何言ってるんだ、意味分からないよ、だからあ、『聖餐』の話をしたいんだろう?」
しかも、ルターを尊敬してやまないルター派のクリスチャンが、「パンはイエスの身体そのものだ」「ワインはイエスの血ずばりそれだ」というルターの思想ないし言葉を「理解」したとき、その「心の中のイメージ」は、ルターのそれと、ほんとうに「同じ」なのだろうか?しかしこれを検証することは、それこそ言語ゲームとしては不可能なのだろう。ルターと同じことを想像しているのだ、間違いない、と言いきるには、内面がどうのこうのではなく、ルターと同じ典礼に従い、ルターの文言に行為をもって従うしかない。
互いに「聖餐」という言葉で「内面的/精神的に」何をイメージし、何を理解しているのかは、「いや、だから聖餐を理解しているんですよ」「言いかえるなら、教義的に○○だと信じていますよ」とは言えても、「今、わたしの心の中の聖餐の映像はずばりコレです」と他人に見せることはできない。だからこそ、互いが同じことを信じているかどうかの大きな基準が、その聖餐という語に促された当事者たちが同じ振舞いをするのか、ということになる。
ところがその振舞いが今、互いに異なるわけである。一つの語彙しかない→語彙についての互いの「内面」は相手に見せることができない→同じ語彙に対しては同じ振舞いをすることで互いが同じことをイメージしたのだと確信するしかない→しかし互いが全然違う振舞いをした。この場合、両者は何を議論したらいいのだろうか。しかもお互いがそれぞれ現「聖餐」について抱いているイメージは、おそらく「これはわたしの指だとわたしは知っているんだ。幻のはずがない。証明はできないが、間違う事は絶対にない」というようなレベルでの確信なのだから。
ツヴィングリは聖餐は教会員団結の象徴であると考えた以上、聖書の言葉が至上であり、聖餐はそれを確認し行動を起こすための手段であると無意識にせよ見做しただろう。だがルターは聖餐「も」聖書の言葉とまったく同等に至上だと考えた。
聖餐が異なってもいいではないかと言う人の意見と、聖餐が異なる以上分裂するしかないと言う人の意見がある。その場合「聖餐」がオープンなのかクローズなのかだけでなく、至上なのか手段なのかという問題もあろう。これだけで2×2で4通りにもなってしまう。実際には単純な4分割ではあり得ないだろうが。
教憲教規の薄い本を手掛かりに、互いの「内面」に深く根差した信仰の問題で対決するのは、現状ではかなり絶望的だ。「日本基督教団」という語さえ、互いに何をイメージしているのかまったく一致できないのに。
カトリックや改革派やメソジストやルター派聖公会や・・・・というような教派をイメージして行動する人は、なんとしても聖餐の統一を願うだろう。日本基督教団「派」として。WCCのようなイメージをする人は、聖餐も多様でよいと考えるかもしれない。何らかの協議会や連盟、連合、同盟として。

*1:梣は「シン」と読み、トネリコのこと