それでも、探す

『教団新報』を読んでいた。自分がよく知っている教会が、種別変更の申し出をしていることを知った。たぶんそれは、人数が増えて第1種になったというのではない。その教会の、神の前に正直に現実を見つめた勇気に感銘を受けるとともに、言葉に出来ない思いも抱いた。
その教会ではないが、同じ地区の、ある教会に、礼拝をしにいったときのことを思い出す。けっこう時間ぎりぎりに行ったのだが、誰もいない。鍵は空いているので、古い建物に入る。湿った床や壁。剥がれかけた「伝道」のポスターが、ぶらんと垂れ下がっている。ごつん、となにかを誤って蹴る。見下ろすと埃にまみれた、壊れたテレビ。蜘蛛の巣、散らばった書類・・・
あのとき、気力を振り絞り意識を集中するのに、どれだけ苦労したか。途方もない無力感に襲われ、空気に向かって聖書の話をしているようだった。もちろん、遅れて礼拝は始まり、3人の出席者がおられた。耳の不自由な方、耳の遠いご高齢の方、やはりご高齢の方で認知症が出始めておられる方。説教をはじめた途端、突然携帯がけたたましく鳴り響き、「はい、もしもし?」と、その方は元気よく外へ出て行ってしまった、わたしの前を横切って。そして、礼拝が終わってきてからその方は戻られ、仰った。「すばらしい説教、ありがとうございました。」。
そう、「伝道、伝道」と言うが、それは決してきらびやかな営みでもなければ、きわだった成果がすぐに出る仕事でもない。冷徹なまでに現実と直面しなければならない。
牧師は万能ではない。今日も日本の多くの教会で、牧師は疲労し、そして信徒もどこかで諦め、疲れている。その現実を、ただちに「主が、主が」と美辞麗句で覆い隠してはならない。「主が」と言うなら、どのようにそこに恩寵があるのかを、責任をもって応答しつつ探し出さねばならない。