教義なり教理→聖書の読み方を教えてくれる、亡くなった祖先たちの面影≒伝統→その大樹の枝葉になりたい

いましがた、二人の人とツイッター上で話し合っていて、ふと自己を振り返る。じゃあ、自分がどちらかといえば信条にこだわろうとする理由はなにか?それこそ赤木善光が田川健三なり荒井献なりに迫ろうとする「実存」の問題である。つまり、論理的整合性のみから信条に演繹的ないし帰納的に納得して信じたのではない。
論理的にみえる自分の見解は、茫漠とした実存の闇に浮き出た小さな島に過ぎないことを知るべきである。たぶん、自分のなかにある何らかの頼りなさや寄る辺なさを、信条という浮き輪にすがりつくことによって、ある程度でも確かなものとしたいと。教条主義(皮肉ではなく語義どおり教条+主義)の人は、たいていわたしのように、浮き輪にすがりつきたいという願望を持っているのではないか。わたしにとって、教義的に無前提な聖書の読解は、砂漠で一人ぼっちでいるなかに、ぽつんと聖書があるような寂しさをおぼえるものであるからだ。しかしその印象もまた、自身の少年から青年時代の教会生活から立ち現われたものであるに違いない。
なんでもかんでも「実存」にしてしまうのはまずいとは思うが、誰かと教義や教理について議論するなら、なぜ自分がその浮き輪にしがみつくのかの理由にならない理由、それこそ「言葉にならないうめき」さえも、恥ずかしがらずに相手に曝す覚悟がないとだめなんだろうと思う。そうでないと、相手はわたしの理屈だけを聞いても、決して納得はしないし、信頼もしないだろう。
赤木善光や聖公会の友人がそれぞれに語る「伝統」という語に、わたしが響応したのも、寂しさ(だけでは言いきれないとはいえ)からだろう。伝統には、今はこの世にいない多くの逝去者の積み重なりがある。たしかに保守的で硬直的かもしれないが、それを培った無名の人々の連なりが。その大樹に連なりたい。
なるほど、だからだろう。まだ教義だの教理だのなんにも知らなかった頃に、大江健三郎の『セヴンティーン』に熱中したのは。自分が大宇宙の点、自分の前にも何億年、自分の死後にも何億年、自分がゼロだということに気絶しそうな恐怖を味わう主人公は*1、大きな樹の枝になりたいと渇望する。
で、彼の場合は右翼に入ってしまうのだが(苦笑)。だが、その動機なり目的なりは、わたしのそれとよく似ていると思う。わたしも17年前の震災後、他人と比べたその被害の小ささにも関わらず、べつに家族や近しい人が亡くなったわけでもないのに、強烈な死の恐怖、無への恐怖に捉われていたから。

*1:“おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に!おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたびに恐怖に気絶しそうだ。”大江健三郎、「セヴンティーン」(新潮文庫『性的人間』掲載)