ここに伝統が

浸礼式の洗礼を初めて見た。式文を朗読するところは、牧師も受洗者もそれぞれガウン、スーツ姿なのだが、「それでは洗礼を行います」となり、いったん牧師室に二人とも引き上げる(女性が受洗の場合は女性はもちろん別室とのこと)。そして、牧師はわたしが手伝い、受洗者は教友と呼ばれる教会員の方が手伝って、洗礼着に着替える。そして牧師、受洗者は大きな洗礼槽のなかに腰まで浸かり、牧師の「父、子、聖霊とともに・・・」という洗礼の言葉とともに、受洗者は後ろに倒れ込んで沈む。そこで、カーテンが閉ざされ、会衆から見えなくなる。カーテンの後ろで二人は別室に戻り、身体を拭いてもとの衣類に着替え、会衆の前に戻る。
わたしは自分が洗礼を受けた時も、今までいくつかの教会で洗礼式を見た時も、すべて滴礼だった。頭に水を滴らせる洗礼。それはそれで、もちろん感激するものである。しかし、今日の洗礼は、圧倒された。劇として、像として、すなわち象徴として、完全に機能している。ローマ6:4の“わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ”という文言そのままに、受洗者は水の中へ倒れ込んでゆく。下から見ていると、まさに墓の中へ葬られてゆくように見える。そして、これは裏方だから見れたわけだが、水からびしょ濡れで出てきたときには、同じ聖書箇所の後半、“キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。”、その起き上がり新しい命を受ける様子そのものである。礼拝出席者たちは、この聖なる劇を見て、ローマ書の神学をともに体験することになる。また、初来会者などに対しては、これが信仰への道のりであり、出発なのだといういきいきとした証言となる。ミッション校の指導で出席していた高校生たちも、唖然としながら、その一部始終を凝視していた。
この教会にはディサイプルスの伝統があるという。ディサイプルスは、信仰の決断を重んじる。だから決断ができない幼児への洗礼はない。そういう伝統に対しては、これにまさるサクラメントの形式はないだろう。主に導かれたと決断した者が、罪人であった古い自分を死に、新しい復活の命に与る聖礼典として。
そして、その直後に、ただちに聖餐式が行われる。だから、「洗礼を受けた者が聖餐に与る」という教義も、この一連の聖礼典においてはまったく不自然さがない。ディサイプルスにおいては、主に導かれたと自覚し、古い自分が死んで信仰の自分が復活し、その新たな命を生き直す者が、自覚して聖餐に与るのである。それが現実の礼拝行為としての洗礼と聖餐の連続のなかにある。