ここに葛藤が

以前、フリー聖餐の立場の牧師が、自分の両親が救世軍に通っていた(通っていた、というのでいいのかな)し、自分もある程度成長するまで両親と一緒に通っていたと言っていた。救世軍ではディサイプルスとは逆どころか、そもそも聖礼典が無いという。そのような救世軍のなかで育ち日本基督教団へと移ったキリスト者は、洗礼や聖餐は、あとから知識として「聖礼典」だと学ぶ。それゆえに、その「聖」には実感がわかないこともありうる。そう考えると、やはり神学的主張は、自己自身が強烈に体験した、あるいはその環境のなかで育った教派的な背景が、大きな影響を与えるのだと思うのである。
わたし自身はといえば、洗礼を受けたのは、聖餐の資格に厳格な北欧系伝道体による、福音派ルター派の教会だった。通い始めて間もなかった頃、何も知らずにパンとワインを食してしまい、あとで教会員の女性に叱責された。
そのときわたしは腹を立てたのではなく、そうかこれが「聖なるもの」かと、少年なりに得心したのだった。もちろん人によってはまったく逆に感じたかもしれない。「仲間外れにされた!二度と教会になんか行くか」とか「聖餐式は差別だ」とか。なんらかのきっかけで教会に通った人にとって、その最初に出会った教会の教派的伝統のみならず、その教会でその人が最初に感じたこと、体験の出発点がどこにあるのかでも、やはり神学的姿勢のゆくえは決まっていくのだと思われる。それは自分の意志では左右できないほど強固に根付く。「頑固だ」といえばそうかもしれないが、頑固というのとも違う。頑固は折れ得るが、体験として焼きついた信仰的態度は、おそらく説得とか規則では変えることのできないものなのだ。それを超える新たな体験でも起こらない限りは。
以前にセブンスデーアドベンチスト系(日本基督教団内の教派ではなく、別の教団)の牧師と話していたら、未受洗者の陪餐について、「教会によってまちまち。わたしはその人が信仰を自覚しているなら、洗礼は問わない」と、実にあっさり。しかもその教派では、聖餐については論争もないという。日本基督教団内のフリー聖餐の牧師とも、また微妙にニュアンスが異なっている。この牧師と出会ったときはカウンターパンチをくらった思いだった。
わたしは洗礼を受けた者が聖餐に与るのだと確信している。だが、そうではない確信を抱き、イエスをキリストであると告白する人がいることも知っている。具体的に知っている。だが、この「知っている」が、さらに別の立場の人たちから見て地雷なのだ。わたしが「知っている」と言うなら、それだけでわたしは裏切り者なのだ。なぜなら「知っている」とは、「出会っている」ということだからだ。「知っている」こと、つまり異なる立場の人の顔を具体的に知っていること、その実存にわずかでも思いを馳せることが裏切りであるのだとすれば、わたしは裏切り者として生きるよりほかない。
イソップの蝙蝠。鳥か獣か、どっちつかずで優柔不断な蝙蝠は、けっきょくどちらにもまともには相手にされないのかもしれない。