今さらながら恥ずかしい

教文館の『キリスト教大事典』を見ると、教理→教義(の頁を見よ)、となっていて、教理の個別の説明はない。同じく教文館のA・リチャードソン、J/ボウデン編、古屋安雄監修、佐藤文男訳『キリスト教神学事典』を見ると、教理と教義のそれぞれの項目がある。それらから大雑把にイメージできることは、広範囲にわたる教理の営みのなかから、教会が公けに制定し公布、告白したものが教義ということになる。
しかしここでややこしいなと思うのは、公けに告白したものが「信条」と呼ばれることもある。ニカイア・コンスタンティノポリス信条とか。ニカイア・・・教義、とは呼ばれないわけだ。あるいは日本基督教団信仰告白というときも、感覚でしかないけれど、たぶん信条で、教義ではない。教団が正式に制定し諸教会へ公布したものであるが。うーん、実は未だに、教義と教理の使い分けがきちんと出来ていない。
しかし渡辺信夫の『プロテスタント教理史』によると、教理条項はいったん確定したら撤回出来ない公式のものである旨書かれている。その場合、ここで書かれた教理は『キリスト教神学事典』の教義の定義と殆ど変らないような気もする。渡辺によれば、だからプロテスタントではほとんど教義は扱われないとある。渡辺の解説によれば、教義はそれこそ教理と比べて「誤りなき規範」とのことである。教理は改訂され得るが教義は不変ということであろうか。だからプロテスタントでは使いにくい言葉なのか。カトリック教皇無謬だから大丈夫なのだろう。東方教会は古代の7つの教会会議の諸条項をもって不変の教義と見做しているという(『キリスト教大事典』)。つまり教義(教理?)の付加、発展を認めない立場である。
ペリカンの『キリスト教の伝統』を読んでいて、それが教理史であると理解できるのだが、教義との区別がやはりよく分からない。神学部時代、もっとそこを詰めておくべきだったなと思う。
そういえば遺伝子の研究分野でセントラル・ドグマというのがあり、それをアニメの『エヴァンゲリオン』で使っていたけれど、あれもセントラル・ドクトリンとは言わないな。ドグマ(教義)は、絶対変えられないもの、そこからすべてが決まってゆくもの、という意味かな。もしもセントラル・ドクトリンだと、どうなるのかな。ドクトリン(教理)だと、中心的で、そう簡単には変えられない公式見解だけれども、ある特殊な状況下では改訂される可能性もある、ということになってしまうのだろうか。