司牧する者たちが問うている

ペリカンの『キリスト教の伝統』をちびちび読んでいるが、とても複雑で錯綜している印象を受ける。だから面白い。キリスト教の歴史は単純な一本道ではない。ギリシャ哲学を取りこんだりギリシャ哲学に取りこまれたり、それぞれの地域で、それぞれの司祭たちが、なんとか信仰を理解しようとした右往左往のプロセスがある。その右往左往を「???」と頭を捻らせながら追いかけていると、教父たちは意外にも、今わたしが、あるいはわたしに身近な人々が悩んでいるような信仰のテーマと、同じようなことで格闘していることが分かる。
そして忘れてはならないのは、こうした司祭たちは牧会者であったということだ。司祭が探求する行為は、信仰を自分自身に受肉させるプロセスでもあっただろう。しかし司祭の探求はそれ以上に、自らが確信している信仰をどうやって人々に伝えるのかという問いであったはずだ。書物として残っていないとはいえ、そこには信徒たちや教会の門を叩いた異教徒たち、すなわち民衆が直面したであろう戸惑いや疑問、躓きなどが反映されている。彼らとともに礼拝するために、彼らとともに喜んでイエス・キリストの十字架と復活の福音を信じるために、司祭たちは晦渋なギリシャ哲学に取り組んだのだ。単純にヘブライズムがヘレニズム化して「しまった」などと冷笑することはできない。
ペリカンはおそらく、教父たちの歴史を、失敗というネガティヴな側面についてもきちんと受け止めつつ、しかしそうした彼らの、人々とともに教会を形成しようとした営みへの想像力も働かせている。だからペリカンの語りは一本調子にはならず、あちらこちらへ寄り道したような難解なテクストになるのだと思われる。