すでに、今、これからも

久しぶりに前任地時代の友人に電話をかけてみた。前任地から車で1時間程度の、海辺にある教会。彼もわたしもいろいろなことで苦労し、「‘主に委ねる’ってなんだ?」と、喧々諤々、しょっちゅう語り合ったのだった。当時の熱気みたいなものが、電話の向こうから相変わらず伝わってきた。
“キリストの到来は「すでに」と「未だ」であった。キリストはその受肉によってすでに到来し、その受肉に基づいて聖餐において到来するであろう。キリストは聖餐においてすでに到来し、また、最後の時に父の国で彼らと飲む新しい盃において到来するであろう。古代の典礼文が、「恵みよ来たりませ(あるいは、主よ来たりませ)、この世よ過ぎ去れ」と祈った時、その終末論的な視野の中には、キリストの最後の到来と、聖餐の中でのキリストの到来とが、共に取り入れられていた。聖餐の典礼文は再臨の遅延への代償ではなく、再び戻って来ると約束した方の現臨を祝う一つの手段であった。”(J・ペリカン著、鈴木浩訳『キリスト教の伝統 』、教文館、2006、186-187頁。)
ペリカンルター派的?(東方教会的?)な読み込みが大いにあり得るにせよ、膨大な資料の検証によって彼が得た結論がこのような聖餐論であることが、興味深いことでもあるし、嬉しいことでもある。前任地で、とくに高齢者と聖餐を祝うとき、「まだまだ長生きしますよ!」的な誤魔化しがもはや通用しない場面に何度も遭遇した。死を間近に控えた人、しかも死を間近に感じ、おのれの限界を自覚している人と聖餐を祝うときに、イエス・キリストが過去におられ、今おられるだけでは駄目だった。「これからも」おられること、終わりまで、終わりを超えておられることが聖餐において確約されねばならなかった。
今以上に死が身近であったはずの古代教会で、もしもペリカンの説がある程度でも妥当性を持っていたならば、教会で聖餐を祝う人々にどれほどの希望が与えられたことであろう。祝いつつ多くの人々が天に召されていった、その積み重なりの上に今の聖餐があるのだとしたら、今天に召されようとしている人にとって、聖餐がどれほど大きな慰めとなるであろうか。