まだまだ説明不足

ただ、実感としてこれだけは言える。信仰は、選択できない。般若心経や法華経にとても魅力を感じるのになぜ仏教に帰依しないのかを、「なぜ選ばなかったのか」という論理でもしも矛盾なく説明できるなら、その論理を克服することもたぶんいずれはできるはずで、それなら信じていないと思う。
反倫理的な物言いになりきわめて危険だが、そういう側面から考えると、オウム真理教を信じて「しまった」人物の犯罪行動を、信仰の外側から論理的に、ないし心理学的に検証するには限界があるのだろう。ただし、健康的な信仰には本来自己検証や相互検証の契機が何度でもあるはずだし、なければならない。
自分がなぜ他の宗教を信じずキリスト教なのかをクリスチャンでない人に対して論理的に説明できない以上、比較宗教学を学ぶ可能性はあっても、宗教の優劣を排他的に論じるのはわたしには非常に難しいか、不可能である。しかも排他的にキリスト教「のみ」を信じているのである。