何度も味わい直すこと

“教会は、宗教の歴史に結び付けられた超自然主義の源泉として旧約聖書を用いたが、それを必要としたわけではなかった。しかし、教会は旧約聖書から、「超自然的なもの」を再定義することを学び、「霊的な世界」とこの世界の間ではなく、最終的には、創造者なる神とその全被造物との間に分岐線を引いた。なぜなら、教会は「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」のを信じ・教え・告白したからである。”J・ペリカン著、鈴木浩訳、『キリスト教の伝統 第1巻』、教文館、2006、203頁。
窓の外で、何かが吹っ飛んでゆく音がする。そういえば前任地で、赴任初年の秋、猛烈な台風で礼拝堂が半壊して使用不能になったのだった。今会堂守をしている教会は丈夫な鉄筋コンクリート製なので、たぶん大丈夫だろうとは思うが。
グノーシス主義にせよ現代のニューエイジやら自己啓発やらにせよ、諸段階があるとはいえ、要するにこの世界とあの世界とか、既知の価値観と未知の価値観というような二項対立である。キリスト教の時代も圧倒的にそうだったはずだが、キリスト教では「神とそれ以外ぜんぶ」という分け方になったのを、ペリカンにて再確認。
とはいえ「神とそれ以外ぜんぶ」というのを、汎神論的だった西欧世界で感覚的に体得するのは容易ではなかっただろう。今でも交霊術やさまざまな占いやファンタジーの世界で実感できる感覚世界は、二元論的なものが圧倒的である。べつに西洋の「ホンバの」キリスト教が「ホンモノの」教理を完璧に実現しているわけではないだろう。ましてや、仏教や儒教アニミズムやらのあふれる日本の家庭で育ったわたしなど、「神とそれ以外」という教理を感覚的に体得するなど、現段階ではさしあたり不可能に近い。だからこうやって繰り返し学んで再確認し続けねばならないわけだが。クリスチャンでない人から見れば、「そんなに実感無いなら、信じなきゃいいのに」と言われそうだなあ。