微視的に生きる

ある誠実な牧師で神学研究者である方が、震災について説教で言及する、ないし日ごろの教会生活で聖書的にこの大災害を説明しようとすることの限界性について語っておられた。大いに刺激を受けた。そこには「プロテスタントの」キリスト者が持つべき視座のようなものがあった。
たまたま昨日まで亀山郁夫ドストエフスキーに関する本を読んでいたわけだが、そこに登場するキリスト教は、限りなく汎神論に近いものだ。もちろん信じているのは人間だから結局は人間の救いが関心の中心ではあるんだろうけれど、ゾシマ長老とアリョーシャとの対話の中で明らかになるキリスト教は、人間も動植物もみんな平等に世界の一部、みたいな感覚に近い。ところで、わたしたち牧師同士がいちばん話題にしやすい「弁証法神学」は、成立した時代背景が戦争における人間の傲慢さや恐怖、不安などであったこともあり、とにかく神と人間、神と人間と人間の歴史、神と人間と人間の世界というような、神の前の人間が主要テーマの話だ。だからだろう、時には自然の話、自然や世界の創造についての議論も出るには出るが、人間についての議論よりは少ないし弱い。
もちろん今回の大震災も、人災の側面は無視できない巨大さを持っている。弁証法神学が語るべき人間の責任的応答についての事柄も、大いにあるだろう。しかし一方で、別の友人が指摘してくれたように、地震はでっかい地球の、人間の責任云々などをはるかに凌駕した地殻変動でもあるのだということは忘れてはならない。
そこでは少なくとも「人間をテーマとして」「説明可能な」「雄弁な解釈を」プロテスタントの牧師が語ることはさしあたり難しいか、不可能である。
言いかえれば、地震がなぜ起こったのかという「神の意志」については問わず、原発事故をはじめとする具体的で現実的な問題にのみ深く関わり、傷ついた人々と深く深く交流する、今はこれしかできないのかもしれない。巨視的な視点から「目先の問題に振り回されるのではなく、もっと神学的な視座があるはずだ」的な冷めた批判をすることは、まだできないし、これからもずっとできないかもしれない。今、ここで牧師が語ることができるのは巨視的な創造論ではなく、微視的に一人、数人、数十人の人と出会い続け、関わり続けること、一緒に祈り続けることだけだから。