対象自身

録画しておいた『日曜美術館』の礒江毅の回を観る。
徹底的に写実を究める礒江が、50代で癌で亡くなるまで、対象を見つめ、対象から与えられ、対象の朽ちゆくさま、すなわち自己自身の死を見つめ続けた様子が、丁寧に編集された番組構成であった。
偶然なのか写実という技法の必然なのかは分からない。だが以前に特集された野田弘志は、棺のなかの遺体を驚きと戸惑いの感情に忠実に、徹底的に写実的に描いていた。また、諏訪敦という人は、事故で亡くなった人の遺族から依頼を受けて、亡くなった人の足跡や遺されたスナップ写真等を精緻に取材、遺族の体つき等まで確かめた上で、「生きている」亡くなった人の写実画を描いていた。写実という行為は、観た「とおりに」描いているのであろうが、その「とおりに」の部分が、つきつめればいかに不透明で、しかも人間の観ることすなわち生きて死ぬことに直結しているかを析出させる。技術の粋を究めた画人が、自己自身の存在そのものを「観る」一点に収斂し尽くし表現し尽くす。そのことによって、絵を描けない人であっても、わたしのような凡人に過ぎなくとも、その遺された作品をとおして、人間のいのちを知ることがゆるされる。
棟方志功のようなことを、礒江毅も語っていた。すなわち自分が対象を描くのではなく、対象自身が、と。