少女に関連して 師の思い出

森茉莉の最晩年を矢川のテクストから読むにつけ、わが師匠の最期の日々を思い起こす。存命であれば今年で90歳になる彼女も、最期までほんとうに少女であった。教会の人々を元気にしたい、否しなければならぬと、倒れて死ぬ直前までいきいきと目を輝かせた。子どものように癇癪を起しては、わたしに当たりちらした。当時わたしは、彼女のちょうど50歳年下の、青二才伝道師。この少女とこの大人になりきれぬ引きこもり青年とが、いわば一つ屋根の下で暮らしたことがあったのだ。
彼女も森茉莉のように、喋り出したらほんとうに楽しそうに、何時間でも話し続ける勢いだった。正座して傾聴しつつ、足が痺れるを通り越して、感覚を失った。師が服装もお構いなし、仕事にひたすら一途であったのも、森茉莉と共通している。だから、散らかっているのに折り目正しい、貧しいのに富貴という、あのなかなかイメージ難いであろう感覚は、わたしにはよく分かる。散らかっていようが、衣類が多少汚れていようが、それでも折り目正しく美しい。なぜなら少女は夢中だからである。
師も、森茉莉とほぼ同じ、83歳で天に召されていった。倒れるまで彼女の死をまったく予感しなかったわたし。倒れる直前、師はそんなわたしに「卒業証書をあげます」と言い遺した。亡くなる二日前に見舞ったら、「なぜ来た、このばかすけ!」と顔を真っ赤にして怒った。しかし後日遺族に聞いたところ、その日一日、彼女は上機嫌であったという。その人生を閉じる二日前に、彼女を上機嫌に出来たことを、わたしは今でも弟子として誇りに思っている。
我が師を想起してこのように徒然に書いてみると、まるで虚構のようではないか。そんなにきれいなはずがない、と。しかしこれは、間違いなくわたしの体験した、わたしの出遭った少女についての証言である。顧みて、矢川澄子森茉莉への思い出も、美しすぎるのではない。あれは事実なのだ。
わがしが初めて「実習」した葬儀、すなわち我が師の最期の弟子へのテストであった、彼女自身の葬儀の後しばらく、当時はまだ存命ないし元気であった同世代の方々から、師の若かりし日について聴かせて頂くこともあった。「おとこまさりに弁が立つ女学生」として先輩からも一目置かれ、後輩からは恐れられた彼女の姿。そんな彼女が、太平洋戦争の始まった12月のクリスマスに、どんな気持ちで洗礼を受けたのだろう。軍港のあったあの町で。彼女はわたしの師匠であった頃こそ立派な神学的論客であったが、最初に教会に行こうと思ったきっかけは、夕方教会の前を歩いた時に響いた、塔の鐘の音であったという。これは彼女から直接聞いた話だから間違いない。
それにしても、夕暮れ、教会の鐘。まさに少女の美感ではないか。あの頃のわたしはまだ高畠華宵しか知らず、吉屋信子も『少女の友』も知らなかったので、こういう角度から師匠に話しかけることもなかったのが、かえすがえすも残念である。もちろんそんな話をして、血相変えて怒られないという保証はなかっただろうけれど。