基準を肯定的に

ヒレベークスを読んでいると、彼が新約聖書学の膨大な成果を丁寧に取り上げつつ(敬意を払いつつ)、司牧者として神学的な考察を深めるという、牧会者にとっては理想的とも思われるような態度を取っているのが分かる。
彼は福音書のさまざまな記事が歴史上のイエスに遡らないことを苦にしない。イエス自身の口や身体そのものに出来事が遡るかどうかではなく、記されている出来事が、歴史上実際に生きて動いていたイエスという人物への思い出にどれだけ忠実であるかということ。そして、そのイエスという人物がその人生全体および復活の出来事をとおして表現しようとしたことにどれだけ応えているかということ。スヒレベークスは、そこに記事の歴史的かつ神学的真正性を見出している。彼の判定軸が、実際に生きたイエスであるという点は一切ぶれない。だから、ブルトマン的に非神話化された「実存的(個人的)応答」に解決してしまうようなこともない。解はつねに歴史上の事実へと開かれたままなのである。
読んでいて知的・神学的に面白いだけでなく、スヒレベークスというドミニコ会士に司牧されているような慰めを受ける。煩悩の塊であるわたしにとって、救われる学びである。
註釈に面白い豆知識があったのでメモしておく。洗礼者ヨハネが“言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる”と挑発するとき、ヘブライ語で「子」(ベン)と「石」(エベン)との言葉遊びがなされている。それはいわゆる「隅の親石」表象にも該当する。
ルカ福音書の善きサマリア人のたとえで、サマリア人が“近寄って”死にかけた人を助けるが、これも、ヘブライ語で「すぐ近くのもの」(レー)と「羊飼い」(ロー)との発音が似ているという。だからサマリア人に善き羊飼いのイメージが投影されているという。それゆえ「羊飼いのいない羊の群れ」というのは、誰も近寄ってこず無視して通り過ぎる、屈辱に曝された人々であると。