肩の力がぬけた力強さ

“大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である。現代のジャアナリストは、殆ど毎月の様に、目的地を新たにするが、歩き方は決して代えない。そして実際に成就した論文は先月の論文とはたしかに違っていると盲信している。”(小林秀雄著、『モオツァルト・無常という事』、新潮社、2011、67頁)
“独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされた事はなかった。模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引き離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞こえる程、独創という観念を化物染みたものにして了った。僕等は、今日でもなお、モオツァルトの芸術の独創性に驚くことが出来る。そして、彼の見事な模倣術の方は陳腐としか思えないとは、不思議な事ではあるまいか。”(同書、68頁。)
ジャン・リュック・エニグの『剽窃の弁明』を読んだあたりから模倣を積極的な行為として意識して以来、こうしたテクストにはつねに注意を払ってきた。しかし昭和21年という時代、ある意味誰もがアメリカの文化を真似しようと憧れたであろうし、また逆に、「誰もがアメリカの奴隷になりおってからに」と嘆かれることも多かったであろう、そんな時代に、真似るということをこれだけ冷静に評価している。しかも芸術家の秘境、生活に追われる一般人には口をはさむ余地などないほど遠かった「独創」の分野で、これだけ爽やかに言い切るとは。やはり小林秀雄はただものではない。
癒しを求める現代、「ありのままでいいんだよ」の風潮のなかではなく、とにかく日本を建て直せ、復興するんだ、再び欧米に並ぶんだという目的意識こそが美徳でもあったろう戦後に、目標ではなくそこに至るプロセスそれ自身の尊さを“モオツァルトは、歩き方の達人であった。”の一言で言い切る気持ち良さ。インクも乾かぬ鮮度を保つテクストである。