原罪の誕生

ペリカンを読んでいて、テルトゥリアヌスの面白い言葉に出くわした。“罪のない子供たちがなぜ、こんなにあわてて、罪の赦しへとやって来なければならないのか。彼らが成熟し、学び、自分がどこに行こうとしているのかを教えられてから、来させよ。キリストを知ることができるようになってから、彼らをキリスト者とならせよ。”。嬰児洗礼がまだすべての教会に行きわたっていたわけではなかったことを覗わせる。ペリカンは、マリアの処女受胎の神学から、キリストの罪のない誕生と、ふつうの性行為の結果生まれた、罪に汚れた子どもとの区別が生じたことを語る。それと同時に、嬰児洗礼を正当化するために(というのも罪がないなら洗礼を授ける必然性がないために)、誕生にしてすでに罪人である(すなわち生まれてすぐに洗礼を授ける必要がある)神学が発達したことにも言及している。それらの相互作用により、アンブロシウス〜アウグスティヌスの時代に「原罪」概念が成立していったのであると。今ではキリスト教の世界で常識的に(とまではいわないにせよかなり一般的に)語られる原罪であるが、ここにも発展の歴史がある。