現在化される

次の日曜日に教会で修養会があるというので、準備のためにマルコによる福音書を通読し、略解や註解の緒論を読んでいた。伝承が伝承として伝わってゆく面白さを、あらためて感じ取ることができた。先日橋本牧師から聴いたボンヘッファーの講演から感じたことも再認識していた。
福音書という形態は、今でいう歴史の意味なら、実在したイエスの事実が「改変」されているということになるが、そんなことは当たり前だとあらためて思えたのも幸いだった。ボンヘッファーが繰り返し確認しているように、教会は「今」語りかけてくるイエス・キリストについて繰り返し伝えようとするのだから、あのイエスさまならきっとこう言われるに違いない、こう振る舞われるに違いない、というような意味での信仰的確信が「事実」と同一視され、福音書においては加筆なり編集なりされていったのは自然なことだろう。そういう意味での「改変」は、福音を受け取ったわたしの内部というか外部というか、わたしとわたしに関わる人ととのあいだでさえ、現在も進行中なのだ。たしかに現代、キリスト教の伝統は分厚く制定され、福音書はテクストとして固定されはしたが、それは埃のかぶった事実を固守するためにではない。伝統や伝承のなかには、現在進行形の出来事として受け取り直すべきソースがあふれている。
だからわたし自身、郵便配達の仕事をしていたとき、あんなにいきいきと福音書を読めた。そこに書かれていることは、すべて今起こっていることだった。このあいだ、ある方が、拘置所にいたときに最も聖書に集中できたというエピソードを語っておられたが、なんだか想像できる。平穏時に聖書を読むようなテクストとの距離感というか余裕がない。だから、ふだんは「物語」として分類され片づけられる事実群が今目の前に起こっていることとなる。そして読んでいる彼は、その当事者すなわち証人として、聖書のなかへ、その事実関係の渦中へと引きずり込まれてゆく。
もちろん、醒めた冷静な読みの振り返りがあってこそ、その体験なり証言なりを、それを信じない、あるいは拒絶する人に対して、語りかけてゆくことも可能なのであるが。