分かりやすさの困難

連れ合いが「うーん、うーん」と考え込みながらもどうにか読んだ『はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内』(PHP文庫)の著者が野矢茂樹で面白そうだったので、読んでみた。
ウィトゲンシュタインが問うて問うて問い詰めそうなテーマを、ボケとツッコミのようなユーモアも交えてゆったりとした文体で書いてある。ボケとツッコミのようなあのゆるさは、ウィトゲンシュタインのようなオーストリア的な語感ではたぶん無い肌理(きめ)なんだろうな。そういう意味でウィトゲンシュタインではなく、日本人の野矢の論理学なのだ。ただ哲学の限界として、どんなに「わかりやすく」書いていても、難しいところは難しい。連れ合いもそこは飛ばして読んでいた。
この難しさに、礼拝説教に通じるものも感じた。牧師は信徒から「わかりやすい話をしてくれ」と言われるし、そう努力もすべきだろうが、2千年近い歴史と伝統のある宗教の、その信仰の内実を、何もかも分かりやすく語るなど無理だろう。それは他の宗教でも同じではないか。入門書というタイトルでも読んでみたら難しかった、というような。なにもかも「要するに」の論法で語れば、それはもはや信仰とは違う何かになるだろう。
「難しいんだから勉強してから聴け」ではコミュニケーションが成立しない。さりとて、なにもかも「要するに」で解体したら、解体したものを寄せ集めても、もう元の総体とはぜんぜん違うものになっている。