創造的な「読み込み」もあるんじゃないだろうか。

“「さあ、へりくだって、貧しい者、小さい者になろう」という、これほど偽善的で思い上がった考えはない。冗談ではありません。教会が日常的にうながすこのような考えこそが、現に貧しく小さくされている仲間たちをどれほど傷つけ、侮辱しているか、気づくべきです。そうではなく、自分の目の前にいるこの人こそ、神さまがつかわした人なのだとみとめ、その人の思いと願いに連帯し、協力することこそ大事なのだ。そうするとき、あなたも目の前の人と同じ神のいのちと働きを共有しているのだ。値打ちとしてはまったく同じなのだ、と。あなたが無理して、「小さい者」のふりをしなくてもいいのだ、あなたが「貧しい者」のふりをしなくてもいいのだ、と。”本田哲郎著、『聖書を発見する』、岩波書店、2010、76頁。
本田のイエスについての説明が面白い。まずマタイ福音書冒頭の系図について、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バトシェバ)、そしてマリアという5人の女性が挙げられているが、男性中心の当時、系図に女性の名前が5人も載ることはあり得なかったであろうこと。しかもマリアを除いても、その女性たちは男性にとっては隠したいようなトラブルに巻き込まれた、ないし身分の低い女性たちだったこと。そしてマリア自身もまた、聖霊によって身ごもったといって、そんなことを信じてもらえるはずがなかったこと(姦通や強姦の疑いをかけられたであろうこと)。
エス誕生時、東方からやってきた占星術学者たち、マーゴイはギリシャ語ではなくペルシャ語そのまま、つまり胡散臭さをもって語られた語であること。羊飼いは差別される身分だったこと。成人したイエスは石切り(テクトーン)であり(マルコ6章)、大工(オイコドモス)より格下であること(ヘブライ語のホツビーム、ハラシームにあたり、ハカーム(職人・賢者)ではない)、そして「マリアの子」と呼ばれ父名で呼ばれないことなど。
復活したイエスについても、本田は独特の解釈だ。ヨハネ20:11−18の、イエスが最初勘違いされた園丁は、ケープーロス、つまり墓地の管理人で遺体を扱う、当時は汚れた仕事をする人、罪人とされた立場。ルカ24章のエマオ途上。日が暮れてもまだひとり先を急ごうとする旅人(実はイエス)は、すねに傷もつ怪しい人と思われても仕方ないこと。ヨハネ21:4−14の、湖畔でひとり野宿し、「何か食べるものはないか」と尋ねる人(これも実はイエス)は、ルカ8:26−38の悪霊憑きのように、隔離された人や追放者、伝染病者のイメージであること。だから当然どの場合も最初は、まさかこの人が復活したイエスだとは、気付かれるはずがなかったのだということ。
本田神父は壮年時代に聖書の新共同訳の翻訳に携わったそうで、ギリシャ語やヘブライ語、そして聖書学の教養に優れた人である。そういう素養と彼自身の遭遇した現実とが有機的に結合して、彼の解釈を、異論はあるかもしれないが、少なくとも恣意的ではないものにしている。
いいや、これらは本田神父の強引な読み込みだ、そうとらえるのも自由だろう。しかし中立的な公正さをもって学問的に聖書を釈義する場合ならば「読み込み」であっても、本田神父が現実の働きのなかで出遭う人から与えられた気付きと、彼自身の「客観的な」語学や聖書学の知識とが融合したのだとしたら。そのような「読み込み」体験は、神父や牧師、教会に来る人にとっては、自身の「読み込み」体験と重なる普遍性を持つのではないか。というのも、たいていの人は、教会において、自分自身の人生なり体験なりを、聖書に読み込むものではないのか。