懐へ飛び込んでみる

J・ペリカン著、鈴木浩訳『キリスト教の伝統 教理発展の歴史 2 東方キリスト教世界の精神』教文館、2006を読み始めた。1の後半でアウグスティヌスが扱われていた際に、おもに彼によって定式化された「原罪」の教理が言及されていた。しかし一方2においては、東方ではそれと全く異なる神学が進行していたのだということが、最初から伺える。すなわち「神化」の教理である。とても楽しみである。
べつに原罪と神化とが対立項であるわけではないだろう。しかし少なくともキリスト教=原罪の宗教というレッテルが偏っているということは、これから少しでも東方の神学を学ぶことにより明らかになるのではないかと思う。
あくまでペリカンの受け売りに過ぎないが、彼によれば西方のキリスト教界における原罪の教理の成立背景とは、
1.教父時代は乳幼児の死亡率が高かったので、幼児洗礼の必要性があった
2.反対者との論争の必要から、それを後付けに教理として論証する必要があった
3.アウグスティヌスの、自然ではなく(罪からの神による一方的な救いという)恩寵を強調する神学があった
4.人間は生まれた時から罪があるという「原罪」の教理によって、幼児洗礼が正統化された
というようなものであるらしい。つまり幼児洗礼と原罪の教理とはセットで発展したと。そして、それはあくまでアウグスティヌスら西方の教理であったと。
神学は一から(無から)考えるというより、実践/論争において生じた問題に対してどう答えるのか、というようなことで積み重ねられた歴史だ。だから当然、土地が変われば生じる問題も変る。東方と西方とでは言葉、文化や慣習が違うのだから、生じる問題のコンテクストも全く違う。同じキリスト教であっても。そういう多様さを学びたい。