超越している、ってなんだろう

ペリカンの『キリスト教の伝統』をとおして教理の歴史を勉強していると、自分がいかに他教派に対して誤解を持っているか、あらためて知らされる。マリアを崇敬することについて、長いあいだ、てっきり土着のフレイヤとかアフロディテなどの女神信仰がマリアに入れ換わった「だけ」だと思っていた。
けれどぜんぜん違っていたのであって、ほんと恥ずかしかった。三位一体において、イエス・キリストは一つのヒュポスタシスである。そこに神性と人性が、分離せず、混じり合ってしまうこともなく、ある。ということは、マリアが人間の赤ちゃんとしてイエスを産んだということは、まったく同時にマリアは神を産んだということになる。だからマリアは神の母(テオトコス)である。神の母なんだから崇敬して当然だ、ということなのだった。もちろん民衆がそれを受容するに当たっては、それ以前の女神のイメージも大きく作用しはしたんだろうけれど。
でもネストリオスやその後継者たちは、神に人間的なものが混じりあう(ようにしか思えない)ことに、どうにも納得がいかなかったようで、マリアはあくまで人間のイエスを産んだ、人間の母親だと主張したらしい。その人間のからだ(神殿)に、神のロゴスが宿ったのだと。だから人間と神、二つのヒュポスタシスだと。一つのヒュポスタシス内で神しかも人間という説を受け入れたら、十字架上で神が苦しんだことになるじゃないかと。そんなことあり得るかと。苦しんだのはイエスの「人間」だけだと。
こういう議論を追いかけていると、ああわたしも、イエスのイメージがそのときによってあっちへふらふら、こっちへふらふらしているなあと反省してみたり。自分の神観をつねに「正しく」維持することなんかできちゃいないなと。
しかし東方の神学についての次のようなペリカンの説明は、千年以上昔のことだとは思えないほど親しみを感じる。“神を「無」と呼ぶことも同様に正確であった。”“神はどこにもいないが、しかしそれにもかかわらず、(神は万物を満たしている、という意味では)どこにも存在していた。”(『キリスト教の伝統 教理発展の歴史 2 東方キリスト教世界の精神』、79頁および80頁。)
こういうのって、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一の哲学とか、柳宗悦が日用品の素朴さに神の無限の愛を見出した民藝運動とか、小田垣雅也の不信即ち信仰の神学などと、どこかで通じあっていると思う。日本人にあうんだろうなと。