教育施設は伝道精神はあったとしても宗教勧誘施設ではない

今号の『ミニストリー』の特集「センセイたちのリアル」を読んだ。キリスト教主義学校の、宗教主事の先生がたの葛藤が、いきいきと語られている。
わたし自身が前任地で覚えていた葛藤と重なる。記事を読んで、「あれでよかったんだな」と、胸を撫で下ろす思いだった。前任地では幼稚園の園長・理事長、それと未就園児の育児支援施設の園長をしていた。
保護者達から一定の評価を得ていた幼稚園と保育施設であったが、宗教となると「それとこれとは別」というか、教会学校にも誘っても殆ど来ることはない。あるいは、日曜日の午前、子ども抜きでゆっくりしたい夫婦が、子どもを預けるために教会学校に連れてきて、親は帰宅というパターン。しんどさを感じなかったといえば嘘になるだろう。教会が大きな負担を抱えて、なんで幼稚園や乳児の保育施設をしているのかと。宗教法人であり、教会の信徒の献金によって園が運営されていたので、なおさらの葛藤でもあった。
しかし入園時に保護者に説明していた。「宗教の勧誘ではありません。自分の思いを絶対的な存在の前に打ち明けて、荷を軽くする体験。絶対的な何かを基準として自分を相対化し、同じく絶対者と出会っているかけがえのない他者を愛し、倫理的に生きてもらうための最初のステップとして」云々(もちろんもっと会話風の言葉で)。
それらは暗中模索の自己流に過ぎなかったが、今回のベテラン宗教主事たちの対談を読んでみると、自分が拙いながら語っていたことと概ね路線は一致していたので、大変慰められる思いであった。そうか、みんな教育施設では同じような葛藤を持っているんだなと。そしてそれは報われているんだなと。