遠く近くに

教団の機関紙で読んだ、「伝道に熱くなる教団から伝道に燃える教団へ」というキャッチコピー。少年漫画のノリだなあ。神の御前に子どもらしい素直さで伝道に臨む、みたいなイメージなんだろうか。でもどうも、「燃える」というと一時的な熱さのイメージが。一気に燃えて焼け落ちるんじゃなくて、地道にくすぶりつづけた方が、自分にはあっているような気も。
ペリカンを読んでいると、教父や会議の時代や時期によって、ウシア、本性、ヒュポスタシス、位格の語の定義が重なりあったり分離したり変動して、覚えきれない。つまり、辞書を一回引いて、この用語の意味はこれこれです、で理解することはできない。ましてやシリア語やラテン語での議論も背景にある。
この錯綜した議論を英語に翻訳して紹介したペリカンを、さらに鈴木浩という神学者が日本語に訳して、それをようやくわたしが読んでいるわけだ。完全に理解しようなどというほうがおこがましいのだろう。
位格と翻訳されているのは、たぶん、プロソーポンのことなのだろう。しかしウシアがてっきり本質とか実体のことだと思い込んでいたわたしにとって、ウシアとカタカナ表記され、さらにそれとは別に本性という日本語訳があるのは、いよいよ難しい。ピュシスのことなんだろうか。仮に言葉は追いかけることができても、イメージの区別にはついてゆけない。それでも追いかけてみたいのだ。
こういったことに興味を持った背景は、やっぱり教会での働きにおいてであった。ある教会に応援で出かけた。そこを担当する兼務の先生もおられた。わたしは割り当てられた祈りの中で「イエスさま」と呼びかけた。あとでその先生がおだやかにだが、こう言った。「祈りは神に呼びかけるのではないか。」。
わたしは答えた。「イエス・キリストは三位一体の神だから、イエスに呼びかけても神に祈っているのではないでしょうか。」。そのときだった。「三位一体なんて、人間が考えたものだろう。聖書にはそんなこと書いてない。」。その先生の見解には敬意を払いつつも、どうしても違和感を拭い去ることができなかったのだ。
自分のなかで、三位一体をはじめとする教義、そしてそれらがどのように時代のなかで理解されていったのかという教理の展開を、たとえある程度であれ整理したいと思った。神学部で勉強して以来、ほったらかしになっていたものを。それが最近もっぱらの課題になっている。
すれ違う女学生たちが、楽しげに「ジングルベル」を歌いながら帰ってゆく。現実なのに、まるでフィクションのように出来すぎた一場面。