死を観る

吉村昭「少女架刑」(北村薫宮部みゆき編『名短篇、ここにあり』所収)を読んだ。死の恐怖を具体的に語る際に「火葬されている自分を想像したりして怖い」というように話す人が時折いるが、まさにそのような「死後の、死体となった自分」を客観的に語る小説であった。
少女の死体を扱っているという意味では大江健三郎の『死者の奢り』と共通するモティーフだが、大江のそれは死体を徹底的に客体として、唯物的に扱うのに対して、吉村の作品では少女が自分で自分の身体の状態を語る。とはいえ男性の作家が少女をして少女の身体を語らしめる以上、少女のモノローグとはいえ淡白にはなり得ず、清潔を装うテクストの端々にどうしてもエロティックな(フェティッシュな)執拗さを滲み出させている。もしも矢川澄子が同じストーリーの作品を書いていたら全然違う描写になっていただろうな、などと想像していた。
読みながらふと、神学部に行く以前に中退した、ある大学での実習を思い出していた。解剖医から手渡される臓器を、順次秤に載せてゆく。心臓も腎臓も脳も、みんなまだ温かい。しかしすでにそれらは観察対象のモノである。大きな震災を忘れられぬ時期でもあったし、死の意味を徹底的に考えさせられた、というより感じさせられたものである。