味を伝えるのは神

キリスト教を、信じていない人に弁証する際、「信じてみないと分かりません」じゃ話にならない。教義や教理の歴史、典礼のありよう、社会とキリスト教の関係…いくらでも他宗教、無宗教の人と共有できる豊かさがある。
しかしまた一方で、それら難しいことはなんにも知らずに、素朴にしかし生涯をかけてキリストを信じた一人の人が地上の命を終え、天へと召されるときに、その人から受け取るメッセージの「味」。これは、やっぱり復活を信じていない人には、わたしはうまく伝えられないし、ましてや信じさせたりは出来ないのだ。
だからわたしの今語っているような「味」といったものは、信じていない人からすれば、尊重すべきではあっても受容はできない、一個人の一信条にすぎない。それが一信条ではなくリアルだと分かるとき。まさにそのとき、わたしではなく神が働いたのだ。そうわたしは信じている。
このような語りがもしも上から目線であると批判されるなら、わたしは安んじて「全く仰るとおりです。これ以上は妥協できない、それがわたしの信仰なのです。たいへん傲慢で申し訳ないことです。」と語り、相手に頭を下げ、そして沈黙するだろう。わたしの力では、それ以上は語り得ないからだ。