きのう新幹線のなかで考えたこと

悔しい。自分が無任所教師であることが、打ち震えるほど恥ずかしい。恥ずかしいと思ってしまう自分を、殺してやりたい。
お前らおぼえてろよと、マンガでもいまどき言わないようなせりふでうそぶき煮え繰り返り、ああそうか、だからイエスさまもあんなに苦労したんだなと苦笑。全く自己愛のかたまりでつまらんやつだよおれは。
赦すとはアフィエーミ。つまり相手のありようをレットイットビーすること。赦さないのはクラテオー。相手をがっちり捕らえて放さないこと。おれはどうしたいんだよ?
つまり赦す(アフィエーミ)とは水に流して忘却することではない。相手の存在を敢てそのままに置き放すこと。だからしんどい。ニーチェが忘却を偉大な目標としたことが、ふと思い起こされる。彼はむしろ赦さない(クラテオー)ことから自由であろうと夢見たのか。
ついこないだの新幹線と、なんと違って見える景色であることか…皮肉なものだ。
昔々、わたしがぽっと出であることを見下し、由緒あるクリスチャンホームの出であることを誇った牧師に、言ってあげたいな。増上慢て知ってますか、ご存知ないでしょうなあ、なにしろあなたの家のそと、仏教のお言葉でございますからと。
法華経の一挿話を思い起こす。わたしは焼け落ちそうな家の中で、のんきに遊んでいる。外から仏さんが「早く逃げろ!こっちに来い!」って叫んでる。でも実のところたぶん、わたしもまた家が焼け落ちる寸前であること、外から叫ぶ声がすることに、うすうす気づいているんだろう。