大胆な翻案でやってくれ

素晴らしき哉、人生!』のジョージばりに「生まれてこなければよかった」と言ってみるテスト。もちろん2級天使は現れない静寂。
カラマーゾフの兄弟』がテレビドラマ化されるという。楽しみだ。前任地を様々な事情でやめなければならなくなった頃、まず『貧しき人々』を読んで、まるでツイッターを読むような衝撃を受ける。そして高校生の頃に読んだ『罪と罰』、ジラールの影響で読んだ『地下室の手記』などをもう一度読み返した。辞任の期限がどんどん迫る苦しい時期に、ボンヘッファーの『獄中書簡』と、この『カラマーゾフの兄弟』を、それこそ聖書のように読んだのである。
イワンの無神論?が、やたらに心に迫ったものだ。彼は新聞の切り抜きをコレクションしている。今で言うマニアだ。幼児など子どもが虐待され死んでゆくような記事ばかりを集めており、アリョーシャにそれを突き付ける。そして「天における和解」といった概念を嗤う。これほどの暴力が無かったことにされるような天国など、自分には絶対認められないと。暴力を受けた側と、暴力を行った側とが、何事もなかったかのように抱き合うような天国、暴力がなかったことにされる「罪の赦し」など、絶対認められないと。たしか、その激しい批判のあとに、あの有名な「大審問官」のエピソードが、イワンの創作物語として語られるのだ。イエスよお前は人はパンのみに生くるにあらずと言ったが、おれたち教会は民衆を満足させてやるために、ひたすらパンを与えてきたんだぞ、と。大審問官の告白すべてを静かに受容するイエスは、崇高を通り越して不気味だった。 あのイエスは、きっとギュスターヴ・モローが描くような姿をしていたことだろう。
今、文庫本を開きながらツイートしているわけじゃないので、こうした記述はかなり間違った記憶に基づいているかもしれない。とにかくいずれにせよ『カラマーゾフの兄弟』には、100年以上昔の話とは思えないものを感じて寒くなったものだった。神へのわたし自身の疑いや迷いをそこに投影する余地が、有り余るほどにあるテクストだったから。『カラマーゾフの兄弟』のあとで『白痴』や『悪霊』も読んだ。『白痴』は、なんだか『アルジャーノンに花束を』に通じるようなしんどさ。『悪霊』も、埴谷雄高の『死霊』を思い出させる、暗い暗い話だった。だがいずれも、暗いからと言ってもはや読むのを止めることは出来ないというか許されない、麻薬のような魅力を湛える作品たちなのである。