望外の

車椅子の母と、デイルームでおしゃべり。傷ついた命の回復しゆく姿に驚嘆。医療スタッフの方々の配慮に満ちた言動に、牧師として学ぶものあまりにも多し。人びとに、そしてイエスさまに深く感謝。
二人の人と、それぞれの場面で、二人きりで祈りあう場面があった。学校で恩師と。また、夜に来訪してくれた友人と。いずれも涙が出る恵みであった。いつもこういうことがあるたびに不思議に思う。いったい祈ってもらうことで、なにがこんなに溢れかえってくるのかと。もちろん「そこに神がいるから」と言ってしまえば、それまでのことなのだが。あえて理性で捉え理解しようとすればするほど、不思議で仕方がなくなる。「親切にしてもらっている」という以上の体験がある。親切にしてもらって泣くほど嬉しいという体験よりは、自分の弱さを受け止めてもらって、一緒に祈ってもらって涙が止まらないということのほうが多い。
今の自分の置かれている状況は、あくまで「世の中にはもっとつらい人がいる」というのを留保した主観的な話だが、しんどい。いろいろあって。けれども、こういうときほど、自分以外の誰かに祈ってもらっていることが身にしみる。涙が出るほど嬉しい。
主をあらわすヤハウェは、ハーヤーという言葉から来たものであるという。ハーヤーはbeという意味もあるが、むしろbecomeあるいはhappenなのだと、神学生時代、今日祈ってもらった恩師に教わった。つまり不動静止客観対象ではなく、人と人とのあいだがらの只中で生起するリアリティが、神にはあるのだと。出エジプト記で神がモーセに名乗る、「わたしはある。わたしはあるというものだ。」のエフェ・アシェル・エフェというのも、「わたしは成るべきものに成るだろう」といった躍動的な意味らしい。これは、祈りのなかで、まさに今日感じた、主の躍動感である。こういう体験を、信仰において「聖霊が臨在した」というのかもしれない。
母の病院へ行くときのこと。病院前の駅で下車、トイレに入る。用を足していると、でかい声でわたしのあだ名を呼ぶ声。横を見ると、なんと中学時代の同級生。よくわたしのこと気づいたなと思いつつ、相手も当時とぜんぜん変わっていなくて驚く。しばらく近況を勢いよく交換しあった後、相手も仕事中のことでもあり、お互い連絡先を教えあって別れた。これもまた望外の恵み。