帰着前日〜新幹線車中

小林秀雄中原中也長谷川泰子で、誰か映画作ってくれないかなあ。久世光彦が紹介した、映画化が見送られた脚本の存在が気になって仕方ない。久世の解釈では、小林は長谷川よりも中原を「愛して」いた。
赤木善光が学生時代、東神大小林秀雄を講師として呼んだエピソードも面白い。井上良雄がどんな心境でそれを聴いたかという赤木の分析は、さながら小説の魅力を放っている。「イエスと洗礼・聖餐の起源」という本。
井上良雄の妻、仲町貞子は、強面で説教する牧師のいる教会よりも、母の思い出に浸ることのできる教文館に安らぎを見出したという。赤木によるあのエピソードの引用は強烈な印象だった。
室生犀星蜜のあわれ」読了。意味を伝達するための手段ではない、表現のための表現を愉しむ。
表現のための表現で思い出したが、何号か前の「Ministry」で、説教学の平野克己先生が、神と戯れる礼拝という意味のことを書いていて非常に感ずるところがあった。伝道の「ための」、救いの「ための」、それらはもちろんとてつもなく大切なことなのだが、そういった反省や対象化以前の、神と無心に戯れる行為の礼拝。
もうちょいで東京だな。ひとりになるといろいろつまらんことを考えてしまい、けっきょく眠れなかったな。BGMはジョン・サイモン「メディアはマッサージである」。
職場の教会へ帰着したジャストのタイミングで、上司が心配して電話を呉れた。なんてやさしいんだ!ありがたやありがたや。