書かれてはいないが、たいせつなこと

“すなわち、使徒と教父の伝統に基づいていると想定された慣行にしては、聖書にも古代の著作家の中にも、それを支持する書かれた証言がほとんどない、という事実である。(中略)聖画像の支持者たちは、自分たちは「率直な信仰と公同的教会の書かれざる伝統の支持がある」と主張し、「書かれざる伝統こそ最も強力なものである」と論じた。”(ペリカンキリスト教の伝統 教理発展の歴史 2 東方キリスト教世界の精神』、164頁。)
キリスト教信仰が、というより宗教というものが、「生もの」であることがよく分かる記述である。たしかにキリスト教には聖書があり、教父らの伝承もあり、近年ならば神学書も様々に出版されてもいる。しかし生ものである出来事の連続からテクストは生み出されるのであるが、テクストから出来事を再現することは容易ではない。テクスト化され得ない余剰があり、その余剰に宗教の命とさえ言えるような諸要素が息づいているのだから。
既存の教会を批判するに際し、「そんなことは聖書には書いていないではないか」という視点が、もちろんあってよいとは思う。信仰のありようは形骸化してはならないし、つねに吟味され刷新されるに際しては、宗教の柱である教典に立ち返る姿勢は重要だから。ただし、それは聖書に書いていないことは意味が無いという結論に、必ず導かれるというものではない。
同じ脚本から解釈の違いによってまったく違う舞台が演じられるように、聖書というテクストが共通であっても、それを信じ、教え、伝えてゆく人間たちは、現実に何らかの行動をとらねばならない。それがさまざまな伝統によって異なるのは、むしろ豊かさなのだ。それを「聖書に書いていない」と一刀両断はできない。