わたしのコンテクスト あまりに私的な神学

イミンク『信仰論』の「第6章 シュライアマハー」まで読んだ。いろいろと挑戦を受ける章だった。ロマン主義的なものが絶対に正しいとは、わたしも思っていない。ただ、わたし自身のいろいろな挫折体験、自分の辿ってきた非キリスト教的ルーツなどの理由からだと思われるのだが、わたしには完全に我─汝の信仰理解を実感するのは難しいのだ。
そこで、若いころに一度興味を抱き、一度は興味を失い、最近再び回帰してきたような、小田垣雅也のネオ・ロマンティシズムへの共感なのである。主客分割以前、あるいは主客分割を含みこむ場そのものとでもいうような、信仰の在り方というイメージへの共感。しかも小田垣自身がそう言うように、そこでこそまたありありと我と汝、主─客としての神体験が起こる。
しかしこうやって自分のロマン主義的信仰観を語ってみると、たしかにイミンクの指摘するように、対象としての、他者としての、我に対する汝としての神という側面が弱いように聞こえる。しかしシュライアマハーが「感情」としか表現し得なかったもののなかに、じつはありありとした汝体験は含まれているのだとわたしは思う。
ロマン主義なのか改革派的組織神学なのか。わたしはそもそも神学を語っているのか。わたしの語っていることは、語感のたんなる個人的受け取り方の感想に過ぎないのかもしれない。わたしにとっては、主─客にはむしろ「溝」が感じられ、主客の「客」の部分には対象化、把握可能化の残響が聴こえる、というだけのことなのだ。あくまで「わたしにとっては」という話である。生い立ちやら他者との関わりをも含めた、わたしのコンテクスト。