わたしとあなたにとっての真実

ちょっとしたきっかけで著者ご本人とお話しする機会があり、手渡された本を読んでいる。吉松繁『在日韓国人政治犯」と私』(連合出版)。四半世紀前のものだが、不謹慎な表現が許されるなら、とても面白い。満州で生き延びた体験、ベトナム戦争真っただ中のサイゴンに支援に行った体験など。
徹底した現場主義。否、「主義」ではない。何か思想を決意してから現地に赴いているというよりは、衝き動かされて気がつけばサイゴンに居る、というような。そういう人が日本に帰り、平和な日本とベトナムとのあまりの格差に怒り、ベトナムに赴くことも辞さなかったほどの気力・体力が現に漲っているのだから、いわゆる社会派牧師として「暴れた」というのも分かる気もする。
戦場を知らない人たちには戦場の緊迫感は分からないものだというように、相手と自分との異なりについて何らかの距離を置いて客観視するような余裕は、おそらく当時の吉松にはなかったと思われる。そういった客観視は、ずいぶん時間が流れた今だから言えるのだろう。それは彼と対決した(させられた)立場の人々にも言えることだ。
吉松の人生のなかで立ち現われてくる世界の相貌も、彼と対決することになってしまった、彼から「権力者」とレッテルづけられた側のそれも、それぞれの人生における現実であって、いずれの側にせよ一方的に「偽善」と片付けられることは、どうにも肯んじられぬことであっただろう。
実は吉松と対面する少し前に、まさに彼と真っ向から対決したであろう人たちとも話をする機会があったのだった。それぞれに「物語」があった。もちろん物語と言って、虚構のことではない。それぞれにとって、まぎれもない痛みや傷の現実のことであり、歴史であった。しかしわたしがそんなことをそれぞれの人に語れば、どっちも否定するかもしれない。こちらこそがリアルだ、そもそもお前はなにさまだ?と。
しかしこれだけは言える。さまざまな激戦をくぐり抜けてきた吉松は、わたしのようなウラナリに対して拒絶するどころかあまりに寛大に過ぎ、歓待の限りを尽くして呉れたのであった。これはわたしの「物語」である。
「立場」のレッテルではない。現実に出会うこと。たとえ物理的な距離によって現実に出会えず、ふれられるのはテクストのみであるとしても、テクストをとおして「生(なま/き)」を、顔を想像すること。
ふと、初夏に出会った赤木善光を想起する。著作だけ見れば、赤木善光と吉松繁とを同一視することは、どちらの立場の人々からも冒涜であると受けとめられるかもしれない。しかし東京に出てきて、たまたま二人と出会ったこと。そのどちらも、屈託なくわたしのような小さな者を歓待してくれたということ。